移動例会

岩殿山明静院を訪問

 岩殿山(岩戸山)明静院は、木造大日如来坐像(国重要文化財、平安時代後期、カヤ、一木造、像高145cm)を中心に、向かって右側に増長天(鎌倉時代、木造・寄木造、像高148.5cm)と左側に多聞天(別名毘沙門天、鎌倉時代、木造・寄木造、像高149.5cm)の三像を祀った天台宗の寺院です。大日如来坐像は平安後期の特徴でもある穏やかな顔つきに優雅な容姿をしています。頭上に宝冠(江戸時代)をのせ、瓔珞・臂釧・腕釧といった装飾具を身につけています。明治39年には新潟県初の国宝指定を受けましたが、昭和25年の法改正により国指定重要文化財となりました。
 岩殿山の歴史は古く、神話の時代までさかのぼります。その昔大国主命が出雲より渡来し、高志(越)の国の曾長であった奴奈川姫と結婚生活をされた岩屋があります。この岩戸山の岩屋で建御名方命(のちの諏訪の大神)が、御子としてお生まれになりました。このとき姥嶽の姫が「日陰のかずら」を襷にして命をお取り上げになり安々とご誕生されたといわれています。この故事にならい古来より「日陰のかずら」をもって安産の御守として世に施しています。
 式社内の姥嶽、阿比多神社もこの岩戸山のことで、古来からの社殿は岩屋内にありましたが腐朽したため正徳3年(1713年)に改造されました。しかし、宝暦元年(1751年)4月25日夜、大地震が発生し岩屋が欠け落ちて社殿も埋没しました。それによりその横に移築されました。
 また、聖武天皇(701~756年)の御世に全国に一国一寺の国分寺建立の勅命により、名僧行基菩薩が越後国府にご滞在になり、岩戸山の神話時代を追想されて当山に逗留し、国分寺建立(上越市五智)とともに自らが「岩戸山明徳院」に三尊を安置して開山され、それ以来子院十一防をもつ越後の霊場となり崇拝されるようになりました。
 その後は天台宗に属して明静院と改名になりました。
 岩殿山は戦国時代の名将上杉謙信公の厚い帰依をうけ、謙信公の死後にここに墓所がおかれてご敬葬しましたが、上杉景勝公が会津へ転封となったのちに、元和5年(1619年)10月に高田藩松平忠昌が藩老永見志摩守に命じ、この謙信公墓所の供具料として当山に十二石地が永代寄進され、その守護もつとめました。
 昭和のはじめは宮殿下の祈願場となり、久邇宮殿下、高松宮妃殿下、東久邇宮殿下などの方々がご礼拝されています。
(出典:『岩殿山縁起』、岩殿山明静院)

 下記の映像は、令和元年10月24日にこのような由緒ある岩殿山明静院において移動例会をおこなった模様です。